父ひとり
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written by Masatetu Akimoto

父ひとり


 


 

5年前の春に父は他界した。

77歳、傘寿を迎えた歳であった。

祝い事を過度に行うことを不得手としていた人だったし、入院中であったことだったから、味気ない病院食のお供を病院近くのスーパーに探しに行って、いくつか揃えただけの地味な祝いだった。


父が入院をしたのは、その時が初めてではない。

72歳で脳梗塞を引き起こし、その後は左半身が不自由な時間を過ごしていた。

脳梗塞では、リハビリ病院での治療後も可能性を追求して、東京の慈恵医大で特別な治療も行った。

他界した前年には食道がんになり、大きな手術を経験した。


脳梗塞以降は、戦いの日々であったかもしれない。


幼い日の思い出、親戚の引っ越しを手伝っていた最中に父は怪我をした。

荷物を運んでいる途中に誤って飛び出していた五寸釘を踏みつけてしまったのだ。

五寸釘は足の裏から足の甲まで突き抜けた。

父の横でオロオロとする息子に「騒ぐな」と言い、親戚に「すいません、ちょっと出てきます」と声をかけ、自分で車を運転して病院に向かった。

診察室で、五寸釘を抜くと血しぶきが診察室の天井まで吹き上げた。


大人の男は、これほど強いものなのかと幼心に驚愕したことを忘れられないでいる。


その強かった父が、死ぬときはあっけなかった。


空を見上げて、父を思う。




 
  1. 父の涙

  2. 父の再婚

  3. レオン

まとめ:レモンではなく檸檬であるべきだ。

 


父の涙

強い父が一度だけ涙を見せたことがある。

16歳の息子に母親の病気を告げたときだった。

当時は、病状をステージで表していなかったが、今思えばかなり進行していた状態であったであろう。父は、無念そうに言葉少なにそれを告げた。


父は、可能性があると聞きつけた「丸山ワクチン」を入手するために毎月東京に通った。

山育ちの根からの田舎者である父は、その後も都会に出ることを不得手にしていたが、この頃の心持ちはいくばくであったであろうか。


育ち盛りの息子は、栄養価が高いと評判だった帝国ホテルのアイスクリームを母が口にしないと言って、毎度、盗み食いしていた。


田舎者の父が、都会の高級ホテルでアイスクリームを買うことだけでも、大汗をかくほどの勇気がいったことであろう。


自分が歳をとるにつれ、父の気持ちが染み渡る。

顔つきや体つき、食べ物の好みと絵に描いたように同じ父子であったが、新しいもの嗜好の息子から見れば、田舎者の父親の考えはピントがズレたものに写っていた。

しかし、似た部分は見かけよりも中身であると痛感する。


母は、それから1年も持たず空に昇った。


父は、17歳の長男と小学校2年生の次男を男手一つで抱えることになった。


自己主張があり、自己完結したがる長男はまだしも、弟は、まだ心も体も未熟でありサポートを要する。食事をはじめとする生活のことだけではなく、学校のこと、親戚との関わり方のこと、男手一つで行うには、途方にくれるほどの問題が山積されていただろう。


自分勝手な長男は、また、考え方が全く違うと思っていたことで、父親の手助けなど微塵も行わなかった。


それどころか、母親を失った喪失感で自分を探すこともできず彷徨った時期であった。





父の再婚

高校を卒業して、長男が東京に出るタイミングで、父はそれまで過ごした家を手放し、新しく家を建てた。


新しいもの嗜好の長男が、感心するほどのモダン新居は、それまで住んでいた家より建物も庭も数段に大きなものだった。


転居のタイミングは、長男が家を出るだけではなく、自身の再婚のタイミングでもあった。


再婚相手の紹介は、花の東京に出る浮かれ気分の元で行われた。

父としては、少し照れたところもあったのであろうし、多忙の中でこの難しい問題の告知を考えあぐねていた部分もあったであろう。


しかし、長男にとっては、大したことではなかった。


まだ、小学生の弟にとって最適な環境であるし、父親の色恋など興味はなかったし、母親を思う気持ちは、自分の中に秘めておく方が心地よかったのである。


父と弟との男三人暮らしは、わずか2年足らずだったことになる。

記憶が薄れている二年間ではあるが、当時の父の年齢は41歳。


今にしてわかる。

男が家庭を見るということ、それも昔気質の田舎者が母親代わりをすることの難しさ。


今、自分の流れている血は、あの時に肉屋の惣菜のコロッケを父が買ってきて食卓に並べた時が源になっているようにも思える。




クレイマー、クレイマー

東京に出てきた初めの頃に見た映画が「クレイマー、クレイマー」だった。


この映画を見て、フレンチトーストは上手く作れるようになろうと思った。

未だに納得のいくものは作れないが。


或る日突然、5歳の息子と父子二人暮らしをすることになってしまった主人公テッド。

朝から晩まで、子育てが入っただけで、全てがうまくいかなくなってしまう。


噛み合わない二人も、やがて物事を協力して進めていく術を知り、強い愛情の中、家庭を作り上げていくが、息子の怪我をきっかけに養育権を妻に渡す羽目にななる。


息子と別れる最後の朝、テッドは、最初は黒焦げにしてしまっていたフレンチトーストを、今は二人で協力して綺麗に作り上げるほどになっていた。


愛する息子のためにガムシャラになっていくテッド。


その姿に、自分の父親を重ねて、初めて父子の関係を父親側に感情移入して、劇場で大泣きしてしまった。





 


 

ステップ

重松清にこの手の作品を描かせたら間違いはない。


取説のような言い方だが、子供、家族の死、希望に重松イズムを加えれば名作になる。


母ひとり子一人のシチュエーションの物語はいくつか思い出すが、父ひとり娘ひとりとなると、娘が成人してからの物語でないと間が持たない。


つまりは、男手で暮らしを紡ぐにはよほど、世間はずれなキャラクターを立てないと抑揚が出せないものである。


「ステップ」は、30歳で愛妻を亡くしシングルファーザーとなった主人公の健一と娘の美紀の物語。


エピソードに義父母、義兄を交えながら、亡くなった愛妻の存在を心地よく表現しながら物語は進んでいく。


あまりにも心を打った長いセリフがあったので紹介しよう。


「(家庭には)生きている人はもちろん、そこには亡くなった人の命も、体を持たないだけで、ちゃんと息づいている。そうでなければ、亡くなった人の写真を飾ったりアルバムに残しておいたりする理由がありません。仏壇だって、仏教を信仰しているからとかじゃなくて、一つ屋根の下で、一緒にいたいんですよ、やっぱり。だから命なんです。我が家は命があるからあるから我が家になって、ペットを買うのだって、命と一緒に暮らしたいっていうか、もっと命を増やしたいっていうか…だって、会社には仏壇なんてありませんよね。亡くなった社員の写真を飾ったりしませんよね。家庭だけなんです、命をきちんと背負うことができる場所って」


このセリフを言うのは、主人公、健一の後妻になる女性、娘美紀にとっては継母都なる散財の言葉でした。


そして「ステップ」というタイトルは、ステップマザー(継母)から名付けられていることも、愛妻を失った男が、必死になって継接ぎになって、それでも明るく育てた家庭を、ステップになることに大きく納得するのです。



まとめ:幼い頃、幼稚園にいくのが嫌だとゴネてバスに乗らなかった息子に、今日は俺もずる休みをすると言って、動物園に連れて行ってくれた父。

朝のジョギングで疲れたから走らないと駄々をこねた息子に、駄菓子屋で当たり付きのフーセンガムを箱ごと買ってくれた父。

不器用だった父の心うちは今、自分に息づいていると強く思う。

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