好きな殺し屋は?と聞かれたら、間髪おかずに「檸檬」と答える。
伊坂幸太郎のマリア・ビートルに出てくる二人組殺し屋の片割れだ。
「機関車トーマス」が大好きで、いつもキャラクターのシールやカードを持ち歩き、事あるごとに、トーマスのエピソードになぞらえて物事を考える。
長身で相棒の蜜柑共々、腕利きの殺し屋という事で、双子にも間違わられる。
しかしながら、好きな方は、蜜柑ではなく、檸檬なのだ。
少しばかり、神経質でまともな考えを持っている蜜柑よりも「ソドー島建設の責任者は、ジェニー・パッカードさんでした」と得意げに言いながら、残虐な行為をする檸檬の狂気に、殺し屋の魅力を強く感じるのだ。
殺し屋は、どこか外れている方が良い。
怨念や理屈の上に、ドロドロとした人間関係を見せられたところで、殺しに酌量があるわけではない。
かと言って、笑いながら何も考えずに殺したそばから忘れるような御仁ではいただけない。
真面目に物事を考えているのだが、どこか常識と外れている様が良いのである。
殺し屋の宿命として、殺し屋は殺しもするが殺されもするという表裏な人生が魅力でもある。
殺し屋たるもの、殺し一辺倒ではダメなのだ。
しかし、その死に際も未練や終身など微塵もなく、簡単に命を奪うのだから簡単に奪われるべきだという潔さに美しさすら感じる。
咲くも花、散るも花というところだろうか。
その命の、いや命知らずの生き方がどうにも共感するのである。
咲いた花として愛でられ、散り行く姿に印象付け、散ったそばから忘れられていく。
人生は、それで良いとつくづく思うのである。
死生観
殺せんせー
レオン
まとめ:レモンではなく檸檬であるべきだ。
これを深掘りしていきます。
死生観
そうだから、殺し屋が好きになったと言えば、なんとも無責任にも聞こえるが、筆者自身が4度の危険な手術を経験していて、死に行き際を知っているから思う事がある。
手術が成功したようだとなんとなく教えられた後、そこから地獄のような生き死にの界が待っていた。
もがき苦しみ、何かに訴え兎に角辛い時間を過ごした。
頑張れ、死ぬな!と自分に伝え、秒ごとに過ぎ行く時間を耐える。頑張っても数分しか経っていない。そんな経験を何度かした。
そして、死は思ったよりも簡単にやってくるということもわかり、それこそ、何かの拍子で知らぬ間に向こう側に行ってしまうのだろうことも推測できた。
今も生きている状態から、いきなり死に直面する事がきても驚きはしない。
夜毎眠りにつくのと同じように死を迎える。
もっとも、睡眠と死はほとんど同じものだとも考えている。
つまりは、目覚めがない睡眠が死であるのだ。
この感覚がわかっていたら、父や母の死にもう少し違った意識を持てたのだろうと思う。
因みに父も母も、その忌の際には会うことは叶わなかった。
殺し屋が好きであるからといって、世に起こる殺人事件への意識は違う。
殺人犯にも何らかの理由があるのであろうが、現実ごととして言語道断である。それは、自殺においても同じことだ。
他殺と自殺の言い方の違いだけで同じ人殺しであると思うのである。
やはり、殺し屋はフィクションの世界であるべきなのだなぁとつくづく思う。
殺せんせー
暗殺者ではなく、殺し屋と称すると、少しばかりその顔や性格が気になるものである。
暗殺者は、忍者の如く正体を隠しながら現れ、正体がわからないまま過ぎ去っていくイメージがあるが、殺し屋となると考え方や表情までもを求められる。
それでいて、やることは「殺し」なのだから、表舞台というわけにはいかない。
そして、それが物語の主人公となると。
殺せんせーが凄いところは、顔に特徴がないのにもかかわらず、強烈なインパクトを持っているところである。
もちろん殺しだけがテーマではない学園コメディ/サスペンスといったストーリー重視の漫画ではあるが、「殺せんせー」というネーミングでもあるように殺し屋である。
そして、「殺し」を見事なまでに教育論として確立した作品だ。
ともすると孤立しがちな環境や高校生という世代に、「何のために」とか、「誰のために」「誰から」といった現実に向かい合う意識を生徒に植え付けていく。
そして、「どうしてそうなるのか」という疑問を自分で解決していく、目覚めや自己確立を起こしていく。
レオン
語るに及ばないリュック・ベッソンの名作である
ベッソンがこの映画で打ち出したのは「凶暴な純愛」
殺し屋に一番カップリングできない子供を持ってくることによって、物語の殺し屋を確立させ、観客の心を震わせた。
つまりは、殺し屋を語るときにご法度である、素性や理由、はたまた子供という日常と同居させることによって起こる隠すべきところを逆に物語にすることでヒューマンとして浮き彫りにする面白さでできている。
この一作で、主人公レオン・モンタナ役のジャン・レノは一気にスターダムにのし上がる。
ラストシーンに流れるスティングの『シェープ・オブ・マイ・ハート』が、物語の哀愁をより引き立たせ、余韻を増長させている。
この作品を軸に「ニキータ」や「コロンビアーナ」といった殺し屋映画の名称としてリュック・ベッソンは確立したと言っても良い。
しかしながら、冒頭に示したように好きな殺し屋を挙げろと言われれば、この作品群の世界観を無視して進めるわけにはいかない。
伊坂幸太郎著の「グラスホッパー」「マリアビートル」「AX(アックス)」
前述の檸檬は「マリアビートル」に登場し、一部「AX(アックス)」にも現れる。
肝いりの個性派殺し屋を何人かピックアップしてみよう。
鯨(くじら)/グラスホッパー:自殺専門の殺し屋ドストエフスキーの「罪と罰」を愛読
蝉(せみ)/グラスホッパー:茶髪の青年、ナイフの達人
槿(あさがお)/グラスホッパー:押し屋
天道虫(てんとうむし):ついてない殺し屋
狼(おおかみ)/マリアビートル:天道虫の宿敵
蜜柑(みかん)/マリアビートル/AX:文学好きのA型
檸檬(檸檬)/マリアビートル/AX:蜜柑とコンビを組む
スズメバチ/グラスホッパー/マリアビートル/AX:男女二人いる毒殺専門の殺し屋
兜(かぶと)/AX:恐妻家の殺し屋
伊坂幸太郎作品は、いずれも心に響く名台詞があるものです。
殺し屋をテーマにしたこれらの作品にも、「なるほどなぁ」と思わされる台詞があった。
「動物にね、「どうして生き残ったんですか」って訊ねてみてよ。
絶対にこう答えるから。「たまたまこうなった」って。」(グラスホッパー)
「六十年、死なずにこうやって生きてきたことはな、すげえことなんだよ。わかるか?おまえはたかだか十四年か十五年だろうが。あと五十年、生きていられる自信があるか?口では何とでも言えるがな、実際に五十年、病気にも事故にも事件にもやられずにな、生き延びられるかどうかはやってみないと分からねえんだ。」(マリアビートル)
「やれるだけのことはやりなさい。それで駄目ならしょうがないんだから。」(AX)
伊坂幸太郎は、殺し屋を殺し屋をエンタテインメントにしながら、彼らの人生の中で気づきを与えるような納得を与えてくれる。
それは、主張とか説得ではない、どこかおかしみを伴った無責任な戯言だ。
まとめ:先日、「マリアビートル」のハリウッド映画化にブラッド・ピットの出演が決定と報じられた。「グラスホッパー」の映画化以降、映像で見る伊坂幸太郎を楽しみにしていたし、ハリウッド映画としての魅力も楽しみではあるが、蜜柑と檸檬のあの微妙なパーソナリティがどう表されるのか憂惧も隠せない。少なくとも「LEMON」ではなく「檸檬」である事は表せないだろうと危惧する。どちらかというとどちらかというと「AX」の兜をブラット・ピットに演じてもらう方がすんなり理解もできる。
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